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南極観測隊〜その歴史1(中山 雅茂編) [fun science]

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10月10日お昼に、「南極観測の先遣隊が出発」というニュースを耳にして、今年も南極観測隊の方々が出発する季節だな〜と思った中山氏。
そこで日本の南極観測のルーツについてのお話し。日本の南極観測のはじまりは、1912年(明治45年)に白瀬矗が率いる南極探検隊が行った学術探検と言われています。
秋田県に生まれた白瀬矗という人が、子どもの頃に寺子屋の先生から「北極」の話を聞いたのをきっかけに探検家を志したそうです。
お寺の長男として生まれ、僧職については探検ができないと考え、矗と改名し、陸軍に入り、30代の時に北極探検に備えて千島探検に加わり、千島列島の最北東端にある
占守島で穴居生活を。ただ、当時他の島で越冬したグループが全員死亡するなど過酷な生活だったそう。それでも極地の探検を目指していたのです。
彼は、1909年にアメリカの探検家ピアリーが北極点の踏破に成功したことを新聞で知りショック受けます。そこで、今度は目標を南極探検にし、翌年1910年1月に帝国議会に南極探検のための経費として10万円を請願し、議会では3万円が議決されたそうです。
結局、政府は援助金を支給しなかったようですが、大隈重信が会長となり後援会を設立し、日本各地で寄付金の募集や応援講演会を行って支援しているそうです。
その年の11月には海南丸と命名された船で東京芝浦を出航し、翌年2月にニュージーランドのウェリントン港に入港し食料を補給、3月に南緯74度まで達し、
氷塊に阻まれる等、一度オーストラリアに引き返し、南極の夏を待ち、11月にシドニーを再出航。年が明けた1912年1月に開南丸は南極ロス海ホエールベイに到着。
この頃、南極点踏破を目的に他の国からも探検隊が向かっていて、開南丸が南極に到着するひと月前に、ノルウェーのアムンセン隊が先に南極点を踏破。
開南丸が南極に到着した翌日には、イギリスのスコット隊が南極点を踏破。しかしその帰りに、スコット隊は全員が遭難して亡くなっているとのこと。
白瀬隊は南極点を目指していますが、厳しい寒気とブリザードの中、2台の犬ぞりが離れ離れになるなどし、南緯80度05分というところで、南極点に向かう走行を中止した
そう。しかし、6月に芝浦に開南丸が戻った時は、多くの市民が集まり、帰国を祝ったそうです。この様な1912年に白瀬隊が南極を探検した記録が日本の南極観測のルーツと紹介されています。その後、44年の月日が経ち、1956年11月に第1次南極観測として「宗谷」という船が日本を出航することに・・・。
「南極に行きたい先生はいませんか?小中高や特別支援学校で働いている先生を対象として、南極から授業をしてくれる先生を募集しています。
12月5日応募書類の締切です。詳細は国立極地研究所の南極観測ホームページで確認してくださいね〜。」とは中山氏からのお知らせでした。

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