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オゾンホール発見の歴史(中山 雅茂編) [fun science]

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オゾンホール発見の歴史について。「南極オゾン層が2066年頃までに回復する予測」というニュースがありました。
1980年代、当時は廃棄される冷蔵庫やエアコンで使われていたフロンガスが、ほとんど回収されずにいました。ヘアムースや塗料、殺虫剤など、様々なスプレー缶の噴射剤として、フロンガスが使われていました。現在は法律でフロンガスの使用が規制されているので違うものになっていますが、当時は化学的に安定で液化しやすく人体に毒性が無いという多くの利点で、様々なものに利用されていたのです。現在ではオゾン層の破壊だけでなく二酸化炭素と同じく地球温暖化を加速させるガスであることも知られています。その温室効果はフロンガスの種類にもよるのですが、二酸化炭素の数百倍から1万倍以上と非常に大きいのです。
「オゾン層が破壊され、その現象として確認されるオゾンホールですが、その発見の歴史が結構面白いのです。」と中山氏。
南極の上空に、南極の春(9月〜10月頃)にオゾンホールが現れます。南極大陸上空のオゾン層がとても薄くなる現象。
インターネットで「オゾンホール 発見」というキーワードで検索すると「日本の気象研究所の研究者が発見した」と紹介されている場合と、「イギリスの南極調査所の
大気物理学者たち」と紹介されてる場合の二つ、もしくは、「日本とイギリスの研究者達によって」と紹介されているそうです。
イギリスと日本どちらが先?気になった中山氏さらに調べたそうです。1983年10月と12月に、気象研究所の忠鉢繁さんがご自身が1982年2月〜1983年1月に昭和基地で行った観測結果を発表。「9月下旬から10月中旬にかけてのオゾン全量は、220 DU前後と昭和基地では今まで観測されたことのない低い値を示している。」
220DUという値は、当時の観測記録の中ではとても低い値で、忠鉢さんが次のように話されています。
「驚いたというより誤観測じゃないかと不安でしょうがありませんでしたよ。」この言葉からも当時、貴重な観測、地球の変化をとらえた時であったことが感じられます。
一方、イギリスの研究者たちですが、1985年5月にネイチャーという雑誌でイギリスの南極調査所が運営するハレー湾観測所での観測結果をもとに発表したのが最初。
原稿自体は1984年12月24日付け、雑誌社が原稿を受しています。国際的な総合科学雑誌ですので、この発表に世界中の研究者が注目したのでは?と。
では、オゾンホールを発見したのはどちらなのでしょう?日本もイギリスもそれぞれの観測地点の上空のオゾン層が薄くなっていることをとらえています。
でも、南極大陸がすっぽり見えるような広がりで、南極大陸の上空のオゾン層が減っている状態をとらえているわけではないのです。
実は、日本とイギリスの研究者たちが観測結果を発表している時、まさに同じ時に、人工衛星はその姿、南極大陸上空のオゾン層が減っている姿をとらえていたのです。
しかし、コンピューターの処理速度が遅く、データを転送する方法も限られていたため、1984年半ばまで、データ処理は9ヶ月ほど遅れていたそうです。
1983年春の衛星データは1984年6月までNASAの中で処理されないままだったという記録が残っています。さらにこの衛星データの扱いについては話が続きます。
1984年6月になり、ようやく1983年9月〜10月のデータが処理され、この時の南極上空のオゾンの値が非常に低いことがわかります。ただ、人工衛星としての設計寿命があり、その設計上の寿命が1年間ですでにその期間を大きく過ぎていました。その為すぐに公開されなかったそう。衛星ではなく他の測定方法で計測された値と比較して
検証する作業が必要になったのです。この時、日本やイギリスのデータではなく、他の観測所のデータとの比較が行われ、観測所の値が衛星の値よりも約2倍も大きく、
衛星の値が異常だと扱われてしまいました。後に観測所の値が正しくない事が判明しています。
1985年、人工衛星で観測されたオゾンホールの画像が公開されるようになり、1986年8月にネイチャーという世界的な科学雑誌にも発表。
(参考:https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S1631071318301196#bib0045
衛星が観測した画像としてオゾンホールが世界に公表されると人々の受け止め方が急速に変わり、1987年9月16日「オゾン層を破壊する物質に関するモントリオール
議定書」が採択につながったといわれていると教えていただきました。

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