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longing for Japanese painting [close to you <art編>]

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5.jpg 羽生輝氏の作品が約60点。
その画業の初期から近年までの日本画の代表作が紹介されています。
少年時代の作品や新聞連載小説のために手がけた挿絵の原画作品、海外に取材した作品のほかに写生道具や日本画の画材も展示。
羽生少年(小学生の頃)に描いた水彩画やクレヨンの作品が宝物のように一番最初に展示されています。
藤原学芸員に印象的な作品を伺いました。
「沢山あるなかで2つ。1つは近年の釧路湿原の連作。というのも、羽生さんは若い頃から一貫して風や雪の厳しい道東の海岸線を繰り返しスケッチして歩き、それを元にした大きな風景画で知られてきました。でも、風景を外から眺めるばかりではなく、厳しく凍てついた自然と向き合って生きる人々の姿にこそ、思いを寄せている点に羽生さんの作品の心があると思います。
例えば、浜辺に描かれた番屋の家並みを見るとモノトーンの重々しい色調の中にも窓に小さな灯りがともっていたり、煙突から煙が上がっているものもあり、人々の生活の温もりが間接的に表現されているんですね。その様な意味では、釧路湿原の四季折々の様子を描いた近年の色鮮やかな作品は、
羽生さんの画業のなかでも当初、私にとっては異色作のように感じられていました。ただ、今回、年代を追って初期からの作品を並べてみると、湿原の絵には番屋や人々の暮らしを仄めかすモチーフが描かれていない分、人々が向き合い、時に共感を寄せながら生活してきた風土に対する思いが凝縮したかたちで伝わってきて、浜辺の主題とつながる思想を内包した印象的な作品だなと感じています。
もう1つは、この作品というのではないのですが。日本画のきらきら、ざらざらとした岩絵具の質感を生かしながら絵の具を薄く繊細に塗り重ねて醸し出される深さというものは、羽生さんが苦労して編み出してきたものだと思います。印刷物ではなかなか伝わらないので、これはぜひ実物で味わっていただきたいと思います。」
(羽生輝展は12/8まで北海道立釧路芸術館で開催中)

2021.1013 O.A 市立釧路総合病院 泌尿器科 森田研氏 [close to you <dr.編>]

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コロナもそうですが、長い歴史の中で人類と感染症の戦いはずっと続いてきました。釧路ももちろんそう。そこで今回は「災害や感染症によって釧路の医療はどの様な危機を乗り越えてきたのか?」という様なお話しを伺いました。「僕は釧路出身ではないので、医師会の資料や大きな病院のことを語っている本等を探してみたのですが、これが結構あるんですよ。」明治時代から振り返ってみました。天然痘やコレラ、腸チフス、肺結核といった病気が繰り返し流行っていた様です。明治の時代はその戦いだっということがよくわかります。これらは新型コロナウイルスと同様に、他の地域から船で入ってきたり、兵隊さんが入ってきたりする事で流行した様子。スペイン風邪もそうですが、どこからか持ち込まれるといった感じです。呼吸器の感染症、大勢の人が集まり移動するとうつる感染症の他に、性行為感染症等も流行ったそうです。明治の時代は梅毒が定期的に何度も流行るので、繁華街等で流行るのを抑えようという事で病院の近くに検梅所を作ったりしたみたいです。人間の生活を全て制限することは難しいという現実もみえてきます。大正7年にはスペイン風邪の流行で釧路でも1000人を超える方が亡くなったそうです。翌年には釧路港の外来船からコレラが発生したそう。感染症のほかにも釧路から発生したのではと当時言われたのがスモン病。釧路で発生が早かったので釧路の風土病ではないかと言われた時期もあったそうです。ただそれは後から原因が判明。「多分この時代は現在みたいな抗体検査もないですから、大きく流行ると1000人単位という方が亡くなる様な状況があり、原因もなかなかわからないという大変な状況だったと考えられますね。」ところが昭和に入ると、津波、地震、不発弾爆発といった文字が並びます。歴史から何かを学ぶとすれば、衛生面の対策をすること。災害に備えなければならないということ。「これって一つの団体とか病院だけでやっていても立ちいかないので、今回のコロナでも本当に学びましたけれど、皆で協力するしかないですよね。例えば行政も、保健所も、病院でも各病院でどういう治療をするのかを分担しないと難しいかなと感じました。これからの新しい医療を考えた時に、感染症に対する予防というものもいつでも対応できる様にしておかなければ・・・というのが今回の教訓でしょうか。感染症学というのが今後非常に重要になってくるのではないかと思います。」