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深海の嵐〜海底乱泥流(満澤 巨彦編) [varied experts]

写真1:The Face of The Deep表紙.jpg写真2:ヘーゼン先生(上)とホリスター先生(下).jpg写真3:「深海の嵐」の発生エリアと海底ケーブルの切断の状況.jpg
前回、日本の3大深海湾の共通した特徴として、湾の中央に海底乱泥流の通り道、トラフと呼ばれる谷、があることを教えていただきました。
「大分前になりますが、海底乱泥流を「深海の嵐」と紹介した科学誌のコラムを読んだことがあります。そのコラムの基となった米国の海洋地質学者の著書は、アメリカの古本屋で見つけて手元にあります。『The Face of The Deep』直訳すると「深海の顔」。米国コロンビア大学の海洋地質学者のへーゼン先生とその弟子でウッズホール海洋研究所のホリスター先生の著書になります。」
「深海の嵐」については、1929年に北米東海岸、ニューファンドランド沖のグランドバンクと呼ばれる場所を震源とする地震が発生し、海底で大規模な斜面崩壊・海底地崩れが発生し、それがもとで海底乱泥流が発生。複数の海底ケーブルが浅い方から深い方に順番に切断されたという事故が<海底谷の大惨事>として紹介されているそう。
当時、大西洋にはすでに複数の通信用の海底ケーブルが斜面に沿って敷設されていて、浅い側から深い側に順々に障害が発生。つまりケーブルが切断され、その切断された時刻から海底乱泥流の速度を推定。その結果、震源域の斜面が急な場所では秒速28mほど、時速では90~100kmという驚きの事実が記載されていたそうです。「海底では秒速1mを超えるとかなり早い流れですので、驚異的な現象が震源域の斜面で起きていたことになります。風速30mというと外出は危険なレベルですが、それが風ではなく土砂が混ざった海水で流速毎秒28mですから海底ではまさに大惨事だったのではないかと思います。」
ただ、震源域で傾斜も急だったことから、乱泥流というより斜面崩壊で一瞬のうちにこのエリアの海底が動いた可能性があるそうですが、斜面が緩やかになるにつれ乱泥流の速度も徐々に遅くなり、最後の方は秒速6m位までに落ちているそう。また乱泥流の流れた距離は約750kmにおよんだことも確認されているそうです。
発生原因としては、地震というより大雨による土砂の河川からの流入によると考えられているとのこと。土砂を含ん泥流は密度が海水よりも重くなっていることから、海中でも長い距離を流れると考えられると。「深海の嵐」は、深海に囲まれた日本周辺でも発生しているそうです。
満澤氏が最初に「深海の嵐」の痕跡を見たのは、1993年奥尻島沖で起きた「北海道南西沖地震」直後の海底の調査。奥尻島の西側、日本海側の斜面で、海底で地崩れの痕跡があり、ヤギ類と呼ばれる海底からはえている生物(イソギンチャクの仲間)がなぎ倒され、カニが土砂に半分埋まって死んでいる様子を見ているそう。
その10年後、2003年の十勝沖地震では、JAMSTECが釧路沖の水深約2500mの海底に設置している海底地震総合観測システムで秒速2mほどの速い流れを観測。
北米の大規模な「深海の嵐」と比べると規模は小さいそうですが、この様な現象は地震の多い日本では頻繁に発生していると。
釧路沖と同様に、相模湾の初島沖の水深1170mの海底に設置している深海観測ステーションでは、近くで発生した伊豆半島東方沖群発地震の時に、小規模な乱泥流による濁りがゆっくりと迫ってくる様子が映像で観察され、エゾイバラガニと呼ばれる大きなカニが濁りから必死で逃げている様子も映っていたそうです。
4月に黄砂のニュースで砂嵐が雲のように迫ってくる映像をTVでご覧になった方も多いと思いますが、初島沖の深海では、規模は小さいですがまさに黄砂のよう濁りが迫ってきて、最後は周りが全く見えなくなるという一連の現象が記録されているそうです。
また、東日本大震災の時も、日本海溝の房総半島から宮城沖の本州側斜面で海底ケーブルが複数個所で切断されたことから、斜面崩壊や海底乱泥流が複数個所で発生していたことが確認されていると。「深海の嵐」は地震だけではなく、河川からの土砂の流入によっても発生し、相模湾や駿河湾でも、大雨の後に、深海で強流やひどい濁りが観測されているとおっしゃっていました。
「ホリスター先生からは、大西洋の深海では海底乱泥流とは異なり、陸上の低気圧のような渦が深海で発生している可能性があるという話を聞きました。その後、北米沖大西洋の深海では100kmを超える規模の渦が不定期に発生することが確認されていますが、この渦についてはまだわからないことがあり研究途上です。この現象はまさに「深海の嵐」と言って良いのではないかと思います。」
※尚、写真は JAMSTEC 満澤巨彦氏からお借りしました。
・写真上(左)はThe Face of The Deep表紙
・写真上(真ん中)はヘーゼン先生(上)とホリスター先生(下)
・写真上(右)は「深海の嵐」の発生エリアと海底ケーブルの切断の状況。黒い線が海底ケーブルで、海底乱泥流により途切れている様子が描かれています。

2023.0519 O.A 稲庭うどんを紐解く [varied stories]

菊田真寛さん(会社役員)

今回は、東京から離れ、秋田の稲庭うどんのお話し。
「実は、母の実家が秋田県の稲庭うどんを作っていまして、先日、行ってきましたので・・。みどりさん、よく言われている日本三大うどんはご存じですか。」からスタートしました。
日本三大うどんは諸説ありますが、香川県の「さぬきうどん」、秋田県の「稲庭うどん」、もう一つは、長崎県の「五島うどん」と群馬県の「水沢うどん」が有力候補。富山県の「氷見うどん」が入って、五大うどんとも呼ばれているそうです。
稲庭うどんは、秋田県湯沢市稲庭町が発祥の手延べ製法による干しうどんです。歴史を紐解くと、「稲庭古今事蹟誌」という歴史書では、江戸時代の初期、寛文年間 1660年代、稲庭地区の小沢という集落に住んでいた佐藤市兵衛さんという方が、地元産の小麦粉を使った干しうどんを製造したのが始まりとされているそうです。
また、江戸時代の旅行の行程をたどるように体験した内容を記した紀行文を書いた「民俗学の祖」といわれている菅江真澄の著書「雪の出羽路」には、稲庭うどんは美味しいとの記述があり、当時から知る人ぞ知る逸品とされてきたようです。
実は、製造方法が公開されたのは近年とか。江戸時代から脈々と受け継がれた創造方法が昭和47年に公開されました。それから、家内工業から会社として製造することにより、製造量も大幅に増え、地元の雇用も増え、今は秋田県を代表する産業となった訳です。
稲庭うどんの最大の特徴は、手作業による職人技と手間暇かけたうどんづくり。秋田県稲庭地区は、奥羽山脈に囲まれた豪雪地帯で、雪のある生活は半年にも及ぶそうです。その厳しい冬を乗り切るために小麦栽培が始められ、手間をかけて、工夫を加えながら、保存食となるものを考えたとのこと。
日本三大うどんの一つに数えられ、平成31年には「広辞苑」に「稲庭うどん」が掲載されたそう。
約350年の歴史を繋ぐため「稲庭うどん協同組合」が誕生。「稲庭うどんの製法規定」も定められているそうです。原料は、小麦粉・食塩・でんぷん・加える水の量は小麦粉に対して食塩水55%以上。作業行程は、1日目、生地を一晩熟成する。2日目、小巻にした生地を手綯いにより加工し、1時間後つぶして、さらに1時間熟成し、手作業により延ばす。3日から4日乾燥を行う・・という製造工程。やはり、伝統・技・工程・品質を維持するためには、製造法を定めることは大切なんですね。
「稲庭うどんの平たい麺は、しっかりとしたコシ、のどごし、つるつる、しこしこの食感が、とても美味しい。シンプルに茹でて、水ですすぎ、そのまま食すのが一番だと思います。とても美味しいうどんなので、是非みなさんに食してもらいたいです。」
寛文五年堂という、稲庭うどんをつくる家が菊田氏のお母様の実家。ですから彼は小さい時に訪れたり、大学生の夏休みには1か月ほど、製造も教えてもらいながら、お手伝いをしたりしたそうです。「稲庭は自然豊かなところ。山に囲まれた、静かで、空気も美味しい町です。都会の喧騒を忘れ、少しゆっくりできました。」
※写真は菊田真寛氏からお借りしました。
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