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能の台詞〜如何なる人にてましますぞ(中西 紗織編) [varied experts]

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能の場面によって少し言い回しが異なることもあるが、「一体あなたはどういうお方でしょうか?」という意味。例えば、前場、前半の場面で登場した、いかにも不思議ないわくありげな女性に対して旅の僧が「いかなる人にてましますぞ」と問いかける台詞として出てくることがよくある。
●《井筒》
 前ジテ:里の女 後ジテ:紀有常の娘の幽霊 ワキ:旅の僧 アイ:里の男
舞台は大和国 石上 在原寺(現在の奈良県天理市 在原神社)
世阿弥作の名作で、能らしい能。しっとりとした風情の美しい物語。世阿弥自身「上花也」つまり「最上級の作品である」と書き残している自信作で、『伊勢物語』から題材をとっている。美しい和歌がたくさん出てくることでも知られている。
前場では、前ジテの里の女が昔を懐かしんで語り、後場では、後ジテの紀有常の娘の霊が、夫の形見の装束をまとい想い募らせて舞を舞うという場面が特徴的。前場で、旅の僧(ワキ)が在原寺に到着し、休んでいると不思議な女が姿を現す。「いとなまめける女性」大変優美な女性が「庭の板井をむすび上げ花水とし、これなる塚に廻向の気色見え給ふ」、庭の板囲いの井戸から水をくみ上げ、花を供える水として、この塚に廻向する、亡くなった方を供養している様子でいらっしゃる。舞台の前の方に井筒の作り物が置かれていて・・・この台詞。旅の僧は大変心ひかれたのでしょう。そのような様子のあなたは「如何なる人にてましますぞ」。するとその女性は「これはこの辺りに住む者なり」と答え、この在原寺ゆかりの、在原業平の御霊を弔っているのだと言い、在原業平と紀有常の娘との恋の物語を語る。女性はついに、実は私がその有常の娘、井筒の女とも呼ばれたのは私だと正体を明かし、井戸の陰に消え去る。
後場では、僧の夢の中に有常の娘の霊(後ジテ)が現れ、在原業平の形見の装束の冠と、直衣という男性貴族の普段着の着物を身に付けている。有常の娘の霊は、井戸の水かがみに自らの姿を映し、そこに愛する人の姿を見て「見ればなつかしや」と謡う。大変美しい場面。幸せな日々を懐かしみつつ、ほのぼのと夜も明けていく中、女の霊は消え、旅の僧の夢も覚めていく。
●《野宮》
 前ジテ:里の女 後ジテ:六条御息所の霊 ワキ:旅の僧 アイ:里の男
舞台は京都 嵯峨野 野宮の旧跡(現在の京都市右京区嵯峨)
世阿弥の娘婿 金春禅竹作。晩秋の嵯峨野を訪れた旅の僧(ワキ)が、野宮の旧跡を参拝。僧が昔を偲び心を澄ましていると、女性(前ジテ)が登場。「いとなまめける女性一人、忽然と来り給ふ」大変優雅で美しい女性が忽然と現れたというわけ。そこで、この台詞「如何なる人にてましますぞ」と僧が問いかける。すると里の女は・・・「如何なる者ぞと問はせ給ふそなたをこそ、問ひまゐらすべけれ」どのようなお方かと私におたずねになるあなたこそどなたでしょうかと。女は直ぐには正体を明かさず、折しも今日 は光源氏が野宮にいた六条御息所のもとを訪ねて来た日だと言い、毎年九月七日に神事を行っているので、神事の妨げにならないよう、僧にこの場を去るようにと女が言う。ところが、僧は私は出家の身で世捨て人なのでお気になさらず、と。女は少しずつ昔語りを始め、ついに六条の御息所は私ですと正体を明かし姿を消す。夜が更けて、後場。僧が弔っていると六条御息所の霊(後ジテ)が牛車に乗って現れ、昔を懐かしみながら、孤独や妄執の思いをつのらせて、〈序ノ舞〉という舞を舞う。能《野宮》では、舞台上に鳥居の作り物が置かれていて、これは六条御息所の心情と深く関わっているそう。
「鳥居にい出でい入る」という言葉が出てくる。六条御息所が、鳥居に一歩踏み入れた足をそのまま後ろに戻すという所作があります。妄執から抜け出したいけれど昔恋しい。迷っている心情を表していると言われている。鳥居をくぐって越えてしまえば、この妄執から解脱できるのに、毎年九月七日にここに来てしまうのは、鳥居をくぐらせることで、私を救おうとする神様の思し召しなのかもしれないと。そして六条御息所の霊は再び牛車に乗り姿を消す。
●《舎利》
 前ジテ:里人 後ジテ:足疾鬼 ツレ:韋駄天 ワキ:旅の僧 アイ:能力
舞台は京都東山泉涌寺(現在の京都市東山区泉涌寺)出雲の国からやってきた旅の僧(ワキ)が、仏舎利や十六羅漢を拝むために京都 泉涌寺を訪れる。能力 力仕事をする寺の男に案内され、仏舎利を拝んだ僧は感激し感動のあまり袖を濡らす。すると怪しげな雰囲気の里人の男(前ジテ)が現れる。僧は、私が仏舎利を拝み申して仏前で仏のことわりを静観して、物寂しい様子でいるところに、仏法を尊ぶ声がする。そのようなあなたは「如何なる人にてましますぞ」と、この台詞。僧が問いかけると、男は答える。「私はこの寺の辺りに住む者です。妙なる仏法の声を聞いて、ここに立ち寄ったのです」と。そのいわれを語るうちに、空がにわかにかき曇り、雷鳴がとどろきます。男は、実は我こそ、その昔仏舎利を奪って逃げた足疾鬼の執心だと明かす。その鬼が、この舎利に今も思いがあるので、お許しくださいお坊様と言うと、舎利を奪い空の彼方に消え去る。後場となり、この寺を守る韋駄天(ツレ)が登場。韋駄天も足の速さで知られている仏法の守護神。その昔、足疾鬼が奪い去った舎利を取り返したのが韋駄天。最後の場面は、足疾鬼と韋駄天の疾走感あふれる追いかけっこのようなダイナミックな展開となる。なかなか決着がつかない・・・ついに韋駄天が足疾鬼を捉え、舎利を取り返す。泉涌寺にめでたく舎利が戻り、足疾鬼は力尽き、消え去る。

2023.0811 O.A 「サッカー女子ワールドカップの歴史とか・・・」 [varied stories]

鈴木雅章さん(翻訳者・ライター)

今回のオーストラリア/ニュージーランド共催。ということで現在オーストラリア在住の彼が色々と調べてくれました。
サッカー女子ワールドカップは1991年が初開催。男子ワールドカップが1930年に初介されてから61年後のこと。第1回の開催国は中国、優勝したのはアメリカ。ちなみに男子ワールドカップの第1回の開催国は南米のウルグアイで、優勝したのもウルグアイだったそう。
男子ワールドカップと同様、4年に1回の開催。第2回の1995年はスウェーデン、第3回の1999年はアメリカ、第4回の2003年もアメリカ、第5回の2007年が中国、第6回の2011年がドイツ、第7回の2015年がカナダ、第8回の2019年がフランス。第9回の今回は、オーストラリアとニュージーランドの共同開催となったのです。オーストラリアとニュージーランドの10のスタジアムで試合が行われています。 これまでの優勝国は、アメリカが4回で最多。ドイツが2回、ノルウェーと日本が1回ずつ。日本は2011年に優勝・・・これはまだ記憶に新しいところかもしれませんね。
実は、今回第9回の開催国にはオーストラリアとニュージーランドが両方とも立候補。今回から出場チームが24カ国から男子ワールドカップと同じ32カ国に増えたこともあり、オーストラリアとニュージーランドの共同開催で話がまとまり、コロンビアとの争いでオーストラリア/ニュージーランド共催が決まったそうです。
サッカー人口も増えているそうです。さて今回の試合、これまでの サッカー男子ワールドカップの試合はいつも、公共放送のSBS(Special Broadcasting Service)が全試合を無料の地上波で放映していて、昨年カタールで開催された大会も全64試合を見ることができたそう。
ところが、今回の女子ワールドカップについては、国際サッカー連盟(FIFA)がオーストラリアの通信2位オプタスのストリーミングサービスに売却したたため、全試合を見ることはできなくなってしまったと・・・。
ただ、オーストラリアの法律で、ナショナルチームが出場する大会は非常に重要であると考えられているため、すべてを有料放送にすることはできないそうです。ですから、民放チャンネル7が15試合を放映。 試合数は、男子と同じで予選が48試合、決勝トーナメントが16試合の全64試合。「64試合中15試合だけの放映なので、ブーイングですよ〜。」
※写真は鈴木雅章氏からお借りしました。
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