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釧路の海のこと(笹森 琴絵編) [nature treasure]

1  シャチとツアー参加者たち 笹森s.jpg2 シャチ.jpg
3 展示の様子 2015 Moo.jpg
今回は2003年から2018年にかけて笹森氏が行ってきた釧路沖の調査で分かったことやその魅力について
たっぷりと語っていただきました。なぜ釧路だったのか?というのは、北方四島と羅臼で鯨類調査に2000年から携わってきて、隣接する釧路周辺海域に興味があったこと。
そしてかつてクジラ銀座と呼ばれた釧路沖のクジラたちが現在はどうなっているのか?またシャチのメッカである北方四島に隣接する釧路沖のシャチの生息状況はどうなっているのか?等々興味が尽きなかったから。
そこで2003年から秋頃に釧路港を起点に白糠や厚岸等沿岸から40km弱ほど沖合までの海域を調査しました。
結果、利用状況、海水温、水深、食べる餌の分布状況、クジラたちの利用目的がある程度分かってきました。
親潮の恩恵、北方四島と隣接しその豊かさを享受していたり、釧路海底谷の存在等々。
8月末から11月中旬を中心にした実施した調査で12種の鯨類を確認しました。ちなみに北海道で確認される鯨類は
20種ほど。種ごとに来遊する時期や海域を把握し、いつどこに行けば何に遭遇できるのか、
また、その背景、鯨類による釧路沖の利用状況のおおよそが見えたそう。
「ただやはり最大の成果は、地元での協力体制と市民ほかの認知度のアップでしょうね。この海について知り、ここが自分たちの宝と意識し、自らクジラに会いたい、
伝えたいと感じてくれる方が釧路に増えたこと。」調査実施当初、鯨類に関する認知度調査も実施したそうですが、ほとんどの市民がこの海に親近感も興味も持っておらず、ましてや日本有数の鯨類の来遊域とは知りもせずにいました。ですから笹森氏がやってきた功績は多大だとあらためて思うのです。
「小笠原と同様に外洋に開かれた海域である釧路海域は、鯨類にとって羅臼とはまた違った魅力や利用価値のある海。
この海の価値を地元の方に知ってもらうことは、豊かさ・多様性を守る礎なのです。温暖化や海洋汚染等海の環境変化や破綻が進んでいますが、持続的に海から恩恵を受けたければ、掛け値無しの利用し放題をやめ、限りある資源を大切にして、それを育む環境を保全するために海全体の動きや営みを邪魔しない様配慮が必要なのです。
海は地球の生き物全てを育むお母さん。みんなで大切にすべきものだと思います。」
※写真は笹森琴絵氏からお借りしました。

hokkaido bank collection [close to you <art編>]

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IMG_5250.jpeg 私たち道民に馴染みのある北海道銀行のコレクションの展覧会です。
北海道銀行は初代頭取の島本氏が木田金次郎の作品に感銘し、設立当初から北海道ゆかりの作家を支援する活動を
行ってきたそうです。「道民が自分たちの地域に育った北海道の芸術を強く求めていることを感じ、
進んでこれに力を貸すことが企業としての社会的な責任である」という言葉を残しています。
北海道銀行のコレクションとしては800点以上、そこからの選りすぐりを33点展示。
油彩が多いそうですが、他には木版画、エッチング、彫刻など。
中には展示会場の天井に届くほどの大きな作品もあるそうです。
津田氏オススメは、佐藤忠良の島本融氏之像。小谷博貞の防雪林I。本郷新のライラックをかざす乙女。
藤野千鶴子のリラの花咲く大通り。
北海道銀行の取り組みは作品収集をはじめとして、若手作家をはじめとした美術展への助成やコンサートの企画等も実践。
この様な支援は、結果として北海道美術を築いていった作家たちを支えることに繋がりました。
「今回の展覧会を見ていただいて、北海道にこんな作家がいた、こんな作家がいるんだと気づいていただけると嬉しいです。」と津田氏。
この北海道銀行コレクションは1階での展示になりますが、2階ではスポット展示を行っています。
こちらでは、三岸好太郎の「飛ぶ蝶」を1点展示し、その「飛ぶ蝶」をテーマにすずきもも氏が新作絵本を書き下ろした、その原画を展示しています。
※尚、写真は北海道立三岸好太郎美術館 津田しおり氏からお借りしました。
(北海道銀行コレクション展は11/23まで北海道立三岸好太郎美術館で開催中)

2021.1020 O.A 釧路ひがし耳鼻咽喉科 院長 小原修幸氏~1~ [close to you <dr.編>]

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11月に新しく釧路に開院する小原氏にまずは先生についてお話しを伺いました。
小学生の頃は医師という道は全く考えていなかったそうですが、中学生の時盲腸で長期入院し医師という仕事の内容を垣間見ることができて興味が湧いたそう。
手術をやる外科系に進みたかったとおっしゃっていましたので、耳鼻科の実習で耳鼻科は大きな手術をすることもあるという事を知ったこと、
そして親しみやすいDr.が多かったので耳鼻科の道へ進みます。  
得意分野は、耳の病気。難聴や耳鳴り、中耳炎など。大学にいらした頃は人工内耳植え込み術や難聴、中耳炎の手術をなさっていたそうです。
市立札幌病院や直近までいらした町立中標津病院でもなさっていたそうです。「これからは、手術をすることはあまりなくなると思うのですが、
市立釧路総合病院などで依頼があればやりたいと思っています。」
医師になられて今年で21年目。耳鼻咽喉科の進化について伺いました。内視鏡の進歩が一番と教えてくださいました。
医師になった頃には副鼻腔炎(蓄のう)の手術が内視鏡で行われ始めた頃で、今とは格段の差。画質も素晴らしく綺麗になり、小さな癌などの病変が見つけやすくなったそうです。最近は耳や甲状腺も内視鏡で行われるようになってきているとおっしゃっていました。他には癌の治療の進歩。
あまり耳鼻科というと癌のイメージはないかもしれませんが、頭頚部癌といって耳・鼻・のど・頸部の腫瘍は多いとのこと。
抗癌剤を腫瘍に血管を通して送り込んで局所的に治療をしたり、放射線治療も進歩しているそうです。
今考える理想の医師像とは・・・。「病院勤めだった時には専門性を高めて、専門医でしかできない手術や治療ができることと考えていました。
ただ、これからは開業医なので、耳鼻科に関することが気軽に相談できて、大きな病気はしっかりと病院の医師に紹介して治療に繋げていけるようにと思っています。
地域の医療にたくさん貢献していけたら嬉しいですね。」

過去の津波が教えてくれること(満澤 巨彦編) [varied experts]

1OrphanTsunamiの表紙.JPG 2ゴーストフォレスト.JPG 3地震の発生と津波到達の時刻.JPG
今回は過去の津波について。まずは津波はどうして起こるの?というお話しから。津波は地震で海底の断層が動くことや、火山噴火で山体崩壊が発生し、海に流れ込むことで津波が発生します。また、最近の研究では海底の斜面崩壊でも津波が発生することが分かってきたそうです。津波の伝わる速度は沖合ではジェット機並みの速さと言われていますが、海底が浅くなると波高が高くなり、その分速度は遅くなるという特性があります。
さて、現代の様に情報網が発達する前に、遠いところで発生した地震による津波についての興味深いお話ですが・・。
満澤氏がシアトルに滞在していた時にアメリカ地質調査所の研究者からお聞きになった江戸時代のこと。
日本時間1700年、1月27日の夜中から28日明け方にかけて、日本の太平洋沿岸の和歌山県から岩手県のいくつかの港で津波の被害が発生したことが、
各地の役場や港の記録から確認されています。ところが、その津波がどこで起きた地震によるものなのか当時は現在の様な観測体制はなかったことから
発生元となる親がわからない、つまり原因のわからない津波として「みなしご元禄津波」と呼ばれていたそうです。
英語ではthe Orphan Tsunamiと表現されていました。Orphanとは孤児という意味です。
その研究者によると、約300年前に北米のパシフィックノースウエストと呼ばれる北西部、カナダプリティッシュコロンビア州から、アメリカのワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州の北部にかけてかなり広い範囲で津波の痕跡が地層から確認されていて、さらにゴーストフォレストと呼ばれる立ち枯れの森が各地で確認されているそう。
野付半島のトドワラをイメージしていただくとわかりやすいかと思います。その地震の津波堆積物やゴーストフォレストで立ち枯れた木の年代測定から1700年頃
発生していることは確認できていました。また、インディアンには伝説の鳥サンダーバードとクジラ、熊が大喧嘩して天と地がひっくり返ったという様な
伝承や絵が残されているそう。様々な記録を日米の研究者が協力して詳細に調べ、被害の発生した時刻や範囲から逆算して、この地震は現地の時刻で1700年1月26日21:00頃に発生し、その規模がマグニチュード9前後であったことを推測することができたそうです。
シアトル沖、パシフィックノースウエストのカスカディア沈み込み帯ではプレート境界型の地震が300~500年くらいの間隔で発生しているのです。
先の地震からすでに300年が経過していることから2011年の東北地方太平洋沖地震のような巨大地震、地元ではBig Oneと呼ばれ、その発生が心配されているとのこと。
「この機会に釧路周辺の災害碑や展示施設など過去の地震や津波についての痕跡を確認し、発生時の行動について再確認してみてはいかがでしょう。」
※尚、写真は JAMSTEC 満澤巨彦氏からお借りしました。
・写真左上はOrphanTsunamiの表紙
・写真中央はゴーストフォレスト
・写真右上は地震の発生と津波到達の時刻

2021.1015 O.A 「ムースハンティングと・・・」 [varied stories]

上村知弘さん(フォトグラファー&ガイド)
http://www.tntnaturecon.com/

世界最大の鹿と言われるムース。ヘラジカ。そのハンティングに出かけたそうです。
以前アラスカで一緒に出かけたことはあったそうですが、自分でライフルを持ってというのは初めて。
このムースハンティングは現地では秋のアクティビティとして普通に行われているそうです。
9月中旬から10月上旬まで。なぜなら彼らの繁殖期にあたり、オスの警戒心が少しだけ緩むそう。
もちろん食料としてそれは使われます。狩猟はオスのみ。メスを撃つことは許されていないのです。
ムースハンティング、何が難しいかというと、彼らを見つけることが一番大変。
今回もメスは見つけることができたそうですが、オスがどこにいるのか上村氏はわからず。。。
ところが一緒に出かけたプロハンターが、ハンターの目ですぐに見つけたそう。
そこから追い詰め、やっとの事で湖まで。そこで仕留めたそうです。なにせ大きなムース。
何百キロもあるカラダですから、1人でハンティングすることはまずなく、何人かで出かけるとのこと。
大きなお肉ですから食料としても長期間もちそう。「1年くらい持つ感じですよ。」
今回は感謝祭があったので、ターキーの代わりにムースの心臓にパンや刻んだ野菜を詰め込みオーブンで焼いたものを食べたとおっしゃっていました。
ほかにはスモークリブを作ったり、シチューにしたり、ソーセージにしたり・・・利用の仕方はたくさんあるのです。
味的にはエゾシカに似ているのでは?と。きちんと処理をすると臭みはないそう。ただ、豚や牛に比べると野性味がある感じとおっしゃっていました。
そして、以前少しお話しをお聞きしていましたが、春から始めたトレーラーからキャンピングカーへの改造。やっと終わったそうです。
金属のトレーラーに木材をたっぷりと使っているので、細かい作業が色々と大変だったみたいです。
お写真を拝見する限りでは木の香りが漂ってきてここに寝たら気持ち良さそうだな・・・と勝手な想像をしていました。
※写真は上村知弘氏からお借りしました。
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2021.1014 O.A アイドル [chord 5]

・素敵なラブリーボーイ / 林寛子
・流れて女 / 林寛子
・ほほえみ / 林寛子
・カモン・ベイビー / 林寛子
~今回は邦楽アイドル編。スペシャルでお送りします。
9月27日に電話インタビューを行い、林さんのお話も交えてお送りします。
何と言っても齋藤氏がインタビューなさったのは初のはず・・・
セレクトは齋藤氏。出演 齋藤氏 & midoriでお送りします。

トドマツ(野村 香編)  [fun science]

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今回は私たちの身近にあるトドマツのお話し。近くにあるのになかなか活用できていない方が多い感じですね。
このトドマツ、枝が上向きで、幹はデコボコがなく。カラマツは枝が下向きで幹がウロコ状。そしてカラマツは落葉します。綺麗な黄色というかオレンジ色です。
北海道ではトドマツは商品化されやすく、様々な種類のものがあるそうです。
例えば、リネンウォーター、ボディソープ、石鹸、そしてもちろんエッセンシャルオイルとして。
トドマツはα・βピネン、カンフェン、リモネン、酢酸ボルニルが含有されています。
香りは万人向け。カラマツよりも癖がない感じで、いかにも森林浴といった香りがします。
ストレス軽減や空気清浄、そして鎮痛作用があるそうです。
この鎮痛は血流促進ですから、炎症を抑えるカラマツとは違い、肩こりや腰痛等の血流によるものに有効性があるそう。
トドマツはもちろん気分を整え、一定にさせてくれたりもしますが、呼吸が浅くなっている現代人にとっては緊張感をほぐしリラックスすることにも作用すると。
そして最近では、このマツを食することも行われているそうです。例えば、松葉茶、松葉ジュース、松葉サイダーというように。
昔から体を整えたり、体調を崩さないための予防としてマツは使われていたそうです。
身近にあるトドマツ、そしてカラマツ、上手に生活に取り入れて日々の生活を過ごすことができたら良いなと思いました。

鉛中毒ゼロを目指して(齋藤 慶輔編) [nature treasure]

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画期的なニュースが飛び込みました。2021年9月10日、小泉環境大臣(当時)が記者会見で、2025年度から全国の狩猟を対象に鉛弾の使用を段階的に規制し、
2030年度までに野生鳥類の鉛中毒ゼロを目指す方針を表明。日本では1990年代から北海道でオオワシ等が200羽以上も鉛中毒死しているそうです。
北海道では2000年から段階的に鉛弾の使用が禁止され2014年からはエゾシカ猟時の鉛弾所持も条例で禁止されたのですが猛禽類の鉛中毒は依然として発生していました。
鉛弾が合法的に使われている本州以南から持ち込まれ密かに使われている可能性があるのでは?とこの番組でも以前お話ししてくださっていました。
さらに、猛禽類の鉛中毒は本州のイヌワシやクマタカなどでも発生している現実があります。
また、カモ等の水鳥は消化を助けるため胃内に小石を蓄える習性があり、鉛散弾を誤食して鉛中毒になることが知られています。
その水鳥の多くは長距離を移動する渡り鳥なので、特定の湖沼での鉛弾規制だけでは根本策にはならないのは周知の事実。
今のところ、鉛散弾は北海道を含め地域を限定した規制しかされていません。ということで、この様な鉛弾の誤食による野鳥の鉛中毒を根絶するため、
全国規模で狩猟に使われるすべての鉛弾の規制が急務だったのです。
希少猛禽類の鉛中毒が明らかになった当時から25年以上も環境省内で鉛弾の全国規制は棚上げにされ、状況調査などが細々と行われてきたに過ぎなかったと慶輔獣医。
無毒弾の普及がなかなか進まない背景には、銅弾の価格が鉛弾と比較して高価である事や北海道以外での入手が困難な場合がある事、
そして、ハンターの鉛中毒に関する知識や意識が不十分である事などが考えられるとおっしゃっていました。
鉛弾をすでに規制している国は日本以外にも存在するそうです。ただ、人間の健康被害対策を主たる目的としていたり、カモ類の鉛中毒防止を目的としているもの
(主に水辺での規制)、狩猟そのものを禁止している国などで、野生鳥類の保全を目的にした日本全国の鉛弾規制は評価に値すると慶輔獣医。
「既に規制が行われている北海道以外では鉛弾は2025年まで合法的に使用が続けられます。野鳥における鉛中毒の根絶こそ目指すべきゴールという事を忘れず、
私たちがしっかりとその状況に目を光らせる必要があると思うのです。」
※写真は齋藤慶輔氏からお借りしました。

longing for Japanese painting [close to you <art編>]

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5.jpg 羽生輝氏の作品が約60点。
その画業の初期から近年までの日本画の代表作が紹介されています。
少年時代の作品や新聞連載小説のために手がけた挿絵の原画作品、海外に取材した作品のほかに写生道具や日本画の画材も展示。
羽生少年(小学生の頃)に描いた水彩画やクレヨンの作品が宝物のように一番最初に展示されています。
藤原学芸員に印象的な作品を伺いました。
「沢山あるなかで2つ。1つは近年の釧路湿原の連作。というのも、羽生さんは若い頃から一貫して風や雪の厳しい道東の海岸線を繰り返しスケッチして歩き、それを元にした大きな風景画で知られてきました。でも、風景を外から眺めるばかりではなく、厳しく凍てついた自然と向き合って生きる人々の姿にこそ、思いを寄せている点に羽生さんの作品の心があると思います。
例えば、浜辺に描かれた番屋の家並みを見るとモノトーンの重々しい色調の中にも窓に小さな灯りがともっていたり、煙突から煙が上がっているものもあり、人々の生活の温もりが間接的に表現されているんですね。その様な意味では、釧路湿原の四季折々の様子を描いた近年の色鮮やかな作品は、
羽生さんの画業のなかでも当初、私にとっては異色作のように感じられていました。ただ、今回、年代を追って初期からの作品を並べてみると、湿原の絵には番屋や人々の暮らしを仄めかすモチーフが描かれていない分、人々が向き合い、時に共感を寄せながら生活してきた風土に対する思いが凝縮したかたちで伝わってきて、浜辺の主題とつながる思想を内包した印象的な作品だなと感じています。
もう1つは、この作品というのではないのですが。日本画のきらきら、ざらざらとした岩絵具の質感を生かしながら絵の具を薄く繊細に塗り重ねて醸し出される深さというものは、羽生さんが苦労して編み出してきたものだと思います。印刷物ではなかなか伝わらないので、これはぜひ実物で味わっていただきたいと思います。」
(羽生輝展は12/8まで北海道立釧路芸術館で開催中)

2021.1013 O.A 市立釧路総合病院 泌尿器科 森田研氏 [close to you <dr.編>]

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コロナもそうですが、長い歴史の中で人類と感染症の戦いはずっと続いてきました。釧路ももちろんそう。そこで今回は「災害や感染症によって釧路の医療はどの様な危機を乗り越えてきたのか?」という様なお話しを伺いました。「僕は釧路出身ではないので、医師会の資料や大きな病院のことを語っている本等を探してみたのですが、これが結構あるんですよ。」明治時代から振り返ってみました。天然痘やコレラ、腸チフス、肺結核といった病気が繰り返し流行っていた様です。明治の時代はその戦いだっということがよくわかります。これらは新型コロナウイルスと同様に、他の地域から船で入ってきたり、兵隊さんが入ってきたりする事で流行した様子。スペイン風邪もそうですが、どこからか持ち込まれるといった感じです。呼吸器の感染症、大勢の人が集まり移動するとうつる感染症の他に、性行為感染症等も流行ったそうです。明治の時代は梅毒が定期的に何度も流行るので、繁華街等で流行るのを抑えようという事で病院の近くに検梅所を作ったりしたみたいです。人間の生活を全て制限することは難しいという現実もみえてきます。大正7年にはスペイン風邪の流行で釧路でも1000人を超える方が亡くなったそうです。翌年には釧路港の外来船からコレラが発生したそう。感染症のほかにも釧路から発生したのではと当時言われたのがスモン病。釧路で発生が早かったので釧路の風土病ではないかと言われた時期もあったそうです。ただそれは後から原因が判明。「多分この時代は現在みたいな抗体検査もないですから、大きく流行ると1000人単位という方が亡くなる様な状況があり、原因もなかなかわからないという大変な状況だったと考えられますね。」ところが昭和に入ると、津波、地震、不発弾爆発といった文字が並びます。歴史から何かを学ぶとすれば、衛生面の対策をすること。災害に備えなければならないということ。「これって一つの団体とか病院だけでやっていても立ちいかないので、今回のコロナでも本当に学びましたけれど、皆で協力するしかないですよね。例えば行政も、保健所も、病院でも各病院でどういう治療をするのかを分担しないと難しいかなと感じました。これからの新しい医療を考えた時に、感染症に対する予防というものもいつでも対応できる様にしておかなければ・・・というのが今回の教訓でしょうか。感染症学というのが今後非常に重要になってくるのではないかと思います。」